あの日、私はただ焼肉を買って帰るだけの、疲れた会社員だった。
本当に、それだけだった。
店の中はあたたかかった。
肉の匂いが濃い。
炭の気配が服にしみつきそうで、レジの前には数人の客が並んでいた。奥では皿がぶつかる音。店員の返事。換気扇の低い唸り。
私は持ち帰りを頼んで、ぼんやり順番を待っていた。
中落ちカルビ。
ハラミ。
カルビ。
豚バラ。
あとカルビをもう一つ。
腹が減っていたから、少し多めにした。
今日はもう何も考えたくなかった。
肉を持って帰って、食べて、終わり。
そういう夜にするつもりだった。
レジにいたのは、若い店員のお兄さんだった。
感じは悪くない。
むしろちゃんとしていた。
手つきも早いし、声も丁寧だし、「この人なら安心」と思わせるタイプ。
だから油断した。
お兄さんはレジを打ちながら、ふっと小さな声を漏らした。
「あ、間違えた」
小さかった。
独り言みたいだった。
でも、はっきり聞こえた。
私は思わず顔を上げた。
けれど、お兄さんは何事もなかったみたいに操作を続けていた。顔色も変わらない。笑顔すらうっすら残っている。
今の、聞き間違いか。
いや、違う。
確かに言った。
でも、ここで「今、間違えました?」なんて聞くのも大げさな気がした。
レジの打ち直しぐらい、誰にでもある。直してるなら問題ない。そう自分に言い聞かせた。
この遠慮が、よくなかった。
会計は終わった。
商品を受け取った。
私は店を出た。
外の空気は少し冷たくて、店の熱気が急に背中から離れた。
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