そのインバウンド客が現れたのは、新幹線が発車する少し前だった。
車内はもう、落ち着いたようで落ち着いていなかった。
荷物を上げる音。
座席を探す声。
床を転がるキャリーケースの硬い音。
暖房のきいた空気の中に、コーヒーの匂いと、乗り込んだばかりの人の慌ただしさが混ざっていた。
私は自分の席に向かっていた。
通路を抜けて、ようやく自分の列が見えた。
窓側でも通路側でもいい。
とにかく座って一息つきたかった。
でも、その瞬間、私は足を止めた。
え。
自分の席の前に、でかいスーツケースが二つ、堂々と置かれていた。
ひとつは黒。
もうひとつはやたら目立つピンク。
しかも、置き方がまた絶妙に腹立たしい。
「ちょっと失礼します」じゃない。
「ここ、今日から俺の倉庫ね」みたいな顔で置いてある。
私は数秒、黙ってその光景を見た。
新幹線の座席前だ。
しかも最前でも最後尾でもない。
普通の客席の足元。
そこに大型スーツケース二台。
おまけに通路側にも少しかかっている。
邪魔とかいうレベルじゃない。
もはや軽い障害物競走だった。
すると、その近くにいた外国人の男性が、こちらをちらっと見て言った。
「一番後ろ、ダメだから」
日本語だった。
びっくりするくらい、はっきりした日本語だった。
私は一瞬、意味がわからなかった。
一番後ろがダメ。
だからここに置いた。
理屈は聞こえる。
でも結論が雑すぎる。
「いや、だからってここに?」と喉まで出かかったけれど、相手はもう用は済んだという顔で立ち去ろうとしていた。
しかも。
なぜかその人、自分の席に座らない。
すっと隣の車両へ消えていった。
私はその背中を見送った。
は?
いや待って。
荷物はここ。
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