22時すぎ。打ち合わせが終わって、やっと帰れると思った瞬間だった。
取引先の男性(既婚)が、いつものノリで近づいてくる。
笑ってる。愛想がいい。だから厄介。
「今日も頑張ったね」
そう言いながら、当たり前みたいに私の肩に手を回してきた。
そして、距離ゼロで囁く。
「2人でご飯行こうよ」
——はい、出た。
またこれだ。
何度目だろう。
仕事の関係だから、強く言えない。
強く言った瞬間、“こっちが悪い空気”にされるのを知ってるから。
私は“社会人の笑顔”を貼り付けたまま、肩をくるっと捩って手を外す。
「2人は無理です〜」
言い方は柔らかく。
でも意思は固く。
手も、ちゃんと払う。
……なのに。
相手は引かない。
むしろ一歩、近づく。
笑いながら、もう一度肩に触れようとする。
その瞬間、私の脳内で警報が鳴った。
(やめて。ここは会社の前。誰か見てる。
でも、取引先。怒鳴れない。逃げたい。でも逃げ方が難しい。)
——空気が、詰んだ。
と思った、そのとき。
「失礼します」
低くて落ち着いた声が、割って入った。
振り返ると、鈴木亮平似の課長がそこにいた。
背が高くて、目が真っ直ぐで、声が“場を仕切る人”のそれ。
課長は取引先に向かって、丁寧に、でも逃げ道を消すトーンで言う。
「資料の件で確認がありまして。少しよろしいですか?」
一見、ただの業務連絡。
でもこの一言で、空気がひっくり返った。
取引先の手が止まる。
笑顔が固まる。
私は反射で一礼して、課長の隣に並ぶ。
課長と2人で取引先に挨拶をして、その場を離れた。
——歩き出して数秒。やっと息が戻る。
「どの資料ですか?」
私がそう聞いた瞬間、課長は小さく肩をすくめた。
「ごめん。あれ嘘」
……え?
課長は呆れたみたいに笑う。
「君、嫌そうな顔してた。丸わかりだよ」
心臓が、ドクンと鳴った。
見てくれてた。気づいてくれてた。
それだけで、変に泣きそうになるのが悔しい。
「助かりました」
私は短くお礼を言った。
すると課長は一瞬だけ目を逸らして、照れ隠しみたいに頭を掻く。
「うん……」
そこで終わると思った。
“いい上司エピソード”で綺麗に終わると思った。
でも、課長は続けた。
「……正直さ、あのまま2人で行っちゃったらどうしようって思って。
焦って声かけただけ」
え?
それ、言う?
恋の匂いとか、そういう甘い話じゃない。
ただの“安全確認”みたいな、ぶっきらぼうな本音。
でも私は、その不器用さに救われた。
「……本当に助かりました」
今度はちゃんと、目を見て言えた。
課長は「うん」とだけ言って、歩く速度を少し落としてくれた。
——ここで終わったら、爽やかな話で終わる。
でも現実は、そんなに甘くない。
取引先は“またやればいい”と思ってるタイプだ。
今日止めても、次もある。
むしろ“押せばいける”と勘違いする。
だから私は、その日のうちに“次”を潰した。
帰社してすぐ、社内の共有ルールに手を入れる。
メールの件名は淡々と。