雨の日の赤信号で、「人生」がズレる音がした。
――カン。
本当に小さな音だった。バンパーが触れた程度。いわゆる“軽い追突”。私は配送の軽バンを止めて、胸の奥でこう思った。
(…よかった。大事じゃない)
この「よかった」が、地獄の入口だった。
相手の車から男が飛び出してきた。30代くらい。顔が真っ赤で、雨粒より怒りが跳ねている。
「おい!何やってんだよ!」
私はすぐに窓を開けて頭を下げた。「すみません!すぐ降ります!」
その瞬間、私の目は相手じゃなく、反射的にフロントガラスの隅へいった。
車検標章。
あの、青っぽい四角いシール。
そこに、雑に書いた数字。
私は“見なかったこと”にして走ってきた。
男の後ろから、助手席側のドアがゆっくり開いた。
出てきたのは女性。顔色が悪い。お腹をかばうように手を当てている。
「…私、妊娠してて……ちょっと、気持ち悪い…」
空気が一気に変わった。怒鳴っていた男の目が揺れる。私の背中に冷たいものが流れた。
「救急車呼ぶ!念のため病院!」
「え、いや、そこまで…」と言いかけて、飲み込んだ。
“そこまで”ってなんだ。腹の中の命のことを、私は“そこまで”で済ませようとしたのか。
巡査が到着するまでの数分が、やけに長かった。雨音だけが正しいみたいに響く。
私は落ち着こうとして、いつもの癖でスマホを取り出した。
保険に連絡すればいい。
そうだ。保険がある。保険が――
電話がつながった。相手は丁寧な声だった。私は事故の状況を早口で伝え、車両情報を答えた。
すると、向こうが一瞬、ほんの一瞬だけ沈黙した。
そして、その一言が来た。
「申し訳ございません。今回の件は……受理できません」
耳が、壊れたみたいになった。
「は? え、どういう…受理できないって…」
私は声のトーンが上がるのを抑えられなかった。恥ずかしいとか、体裁とか、そんなものはもうどうでもよかった。まずい、まずい、まずい。
「お客様の車両状態を確認したところ、補償の対象外となります」
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