夜行バスの灯りが落ちて、たった3分。
エンジンの低い振動と、静寂が車内を包み始めた、その瞬間。
「ギャアアアアアアアッ!」
ブレーキ音じゃない。赤ちゃんの泣き声だった。
後方から、容赦なく響く。
何人かの肩がビクッと動いたのが分かった。
私は目を閉じたまま、祈った。
――すぐに落ち着いてくれ。
だが、5分。10分。
音量は下がらない。
母親は座席に座ったまま、赤ちゃんを抱き、前後に揺らしている。
デッキに出る様子はない。
車内は消灯済み。みんな眠る前提で乗っている。
明日は朝一の仕事。だから私は夜行を選んだ。
赤ちゃんは悪くない。泣くのが仕事だ。
分かっている。
でも、20分経っても止まらない。
どこかで舌打ち。
また、舌打ち。
空気が重くなっていく。
私は迷った。
言うべきか。黙るべきか。
でも、このまま4時間続いたらどうする?
私はそっと振り返り、小声で言った。
「すみません……少しだけ外であやしていただけませんか?」
できるだけ穏やかに。
その瞬間、彼女は顔を上げた。
「赤ちゃんは泣くのが仕事なんです!」
車内に響く声。
全員の視線が、一斉にこちらに向いた。
彼女はさらに続けた。
「嫌ならチャーター便でも乗ればいいじゃないですか?」
一瞬、頭が真っ白になった。
そして、追い打ち。
「子ども嫌いなんですか?」
違う。
そうじゃない。
でも、言葉が出ない。
車内の空気が変わった。
前方から低い声。
「ここは寝る前提のバスだろ。」
別の席から。
「せめてデッキ出るとかあるだろ。」
今まで黙っていた人たちが、静かに声を落とす。
怒鳴らない。
でも、明確な否定。
彼女の表情がわずかに揺らぐ。
その時、車内マイクが入った。
「お客様へご案内いたします。」
運転手の落ち着いた声。
「皆様が安全かつ快適にお過ごしいただけるよう、ご配慮をお願いいたします。」
数秒の沈黙。
「次のサービスエリアにて、少しお時間を取ります。」
ざわめきはない。
でも、誰もが理解した。
30分後、サービスエリアに到着。
運転手が後方へ歩いていく。
声を荒げない。
「お母様、外の空気を吸われますか。お子様も落ち着かれるかもしれません。」
命令ではない。
でも、空気が背中を押していた。
彼女は立ち上がり、赤ちゃんを抱えてバスを降りた。
ドアが閉まる。
静寂。
誰も拍手しない。
誰も勝ち誇らない。
ただ、張り詰めていた空気が、ゆっくり緩む。
10分後。
彼女は戻ってきた。
赤ちゃんは眠っていた。
彼女は何も言わない。
もう、目も合わせない。
バスが再び走り出す。
私は目を閉じた。
やっと、眠気が戻ってくる。
そして思った。
赤ちゃんは悪くない。泣くのが仕事だ。
それは分かっている。
だからこそ言う。
泣くのが仕事だから赤ちゃんは悪くない。
でも。
それを分かった上で“寝る前提の夜行バス”を選んだのは誰だ?
「赤ちゃんは泣くのが仕事」
それは、周りが気遣うための言葉であって、開き直るための免罪符じゃない。
優しさは強制じゃない。
我慢も義務じゃない。
あの夜、私は怒鳴らなかった。
でも、黙ってもいなかった。
線を越えたら、誰かが必ず、止める。
それだけの話だ。