舌打ちされた瞬間、私はこの人の名前を覚えようと思った。
23時47分。発車まであと28分だった。
福岡空港から博多駅まで。
本来なら地下鉄で十分だと、地元の人は言う距離だ。
でも私は、地下鉄を使えない。
病気の後遺症で右手に麻痺が残っている。
スーツケースの持ち手を強く握れない。
階段は怖い。手すりを掴んでも力が入らず、体が傾く瞬間がある。
混雑したホームで押されたら、踏ん張れない。
だからタクシーを選んだ。
行き先を「博多駅」と告げたとき、運転席から低い声が落ちた。
「博多駅なら地下鉄がよかったやろ」
独り言のような口調だった。
でも、はっきり聞こえた。
ルームミラー越しに目が合う。
冷たい視線だった。
観光客だと思われたのかもしれない。
“わざわざタクシーを使う客”を見る目だった。
私は静かに言った。
「すみません、病気で麻痺があって、地下鉄が難しいんです」
一瞬の沈黙。
そして、小さな舌打ち。
車内の空気が、明らかに変わった。
それ以上、私は何も言わなかった。
感情的になっても、発車時刻は待ってくれない。
博多駅が近づいたとき、私はゆっくりとスマホを取り出した。
焦らない。急がない。
「お名前、もう一度よろしいですか」
運転手は少し間を置いて、名札の名前を言った。
私は続けた。
「会社名も確認させてください。領収書をお願いします」
ルームミラーの中の目が、わずかに揺れた。
私は会社名を復唱した。
車両番号も、はっきり声に出して確認した。
その瞬間だった。
運転手の声が変わった。
「……申し訳ありませんでした」
記事はまだ終了していません。次のページをクリックしてください
引用元:,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]