最初に思ったのは、
「いや、場所を間違えた?」
だった。
買い物袋を両手に提げて、さっき停めたはずの列まで戻った。
雨で白線が少しにじんでいて、駐車場全体が同じように見える。
でも、間違えるはずがない。
入口から3列目。
右側に自販機。
少しだけ斜めに停めたのを自分で覚えている。
なのに、そこに私の車がない。
代わりに、地面に横たわっていた。
巨大なイカ。
しかも、近くにお茶。
意味が分からなすぎて、しばらく声が出なかった。
盗難?
置き土産?
交換?
いや、車とイカの物々交換って何。
しかもお茶付き。
親切なのか、挑発なのか、文化なのか。
頭の中だけが忙しく動いて、体は完全に止まっていた。
通りかかったおばあちゃんが、私の横で足を止めた。
そして、イカを見て、私を見て、またイカを見た。
「……立派ねぇ」
そこ?
第一声そこ?
私は思わず、
「私の車、なくなってるんです」
と言った。
するとおばあちゃんは、少し考えてから、
「でも、お茶もあるわね」
と言った。
だからそこじゃない。
いや、たしかにある。
ちゃんとある。
でも今は、お茶の有無より車の有無が大事だった。
私は買い物袋を足元に置いて、もう一度周囲を見回した。
同じ色の車。
似た形の車。
濡れたアスファルト。
白線。
看板。
入口。
何度見ても、さっきの場所に車はない。
そしてイカはある。
ここだけ現実感がバグっていた。
一応、車のキーを押してみた。
ピッ。
どこかで小さく音が鳴った気がした。
え?
もう一度押す。
ピッ。
音はする。
でも目の前にはイカ。
まさか、このイカが反応してる?
一瞬、本気でそう思った自分が嫌になった。
冷静になれ。
これはイカだ。
キーで開くタイプのイカじゃない。
私は音の方向へ歩いた。
すると、2列向こうに私の車があった。
普通にあった。
きれいに停まっていた。
鍵も反応している。
ただ、私の記憶の中の駐車位置だけが、堂々と間違っていた。
つまり。
車は消えていない。
私が勝手に、違う場所で絶望していただけ。
じゃあ、あのイカは何だったのか。
そこが一番分からない。
安心した途端、今度は好奇心が勝った。
私はもう一度、イカの場所に戻った。
やっぱりいる。
大きい。
冗談みたいに大きい。
そして、お茶。
誰かが「ちょっと置いておきますね」というテンションで置いたにしては、存在感が強すぎる。
近くにいた男性に聞いてみた。
「あの、これって誰かのですか?」
男性はスマホから顔を上げて、イカを見た。
「ああ、さっき軽トラの人が置いてましたよ」
軽トラの人。
情報が急に漁港になった。
「忘れ物ですかね?」
と聞くと、男性は普通の顔で言った。
「たぶん、受け渡しじゃないですかね」
受け渡し。
駐車場で。
巨大なイカとお茶を。
日本、たまに想像の斜め上から平和を出してくる。
普通なら、駐車場にこんなものがあったら大騒ぎになりそうなのに、周りの人たちは案外落ち着いていた。
二度見はする。
写真も撮る。
でも誰も荒れていない。
むしろ、
「新鮮そう」
「重そう」
「お茶があるのがいい」
みたいな空気。
私だけが、車を失った人みたいな顔でパニックになっていた。
しばらくすると、本当に軽トラが戻ってきた。
運転していたおじさんが、何事もなかったように降りてきて、
「あ、すみません、邪魔でした?」
と言った。
邪魔とかの問題ではない。
でも、おじさんの顔があまりに自然すぎて、こちらもつられて普通に返してしまった。
「いえ、大丈夫です。ちょっと車が消えたかと思って」
おじさんは笑った。
「それはイカのせいじゃないですね」
その通りすぎて何も言えない。
おじさんはイカを抱えるようにして軽トラに積み、お茶も忘れずに回収した。
そして最後に、
「冷えてるうちに渡さないとね」
と言って去っていった。
冷えてるうちに渡すものが、駐車場に横たわる巨大なイカ。
この国、まだまだ奥が深い。
私は自分の車に戻りながら、さっきまでの焦りが一気に恥ずかしくなった。
車はちゃんとあった。
イカもちゃんと持ち主がいた。
お茶もセットだった。
誰も困っていない。
ただ私だけが、頭の中で大事件にしていただけ。
でも、正直ちょっと救われた。
最近、駐車場で嫌なニュースやトラブルの話ばかり見ていたから、こういう意味の分からない平和に笑ってしまった。
車がなくなったと思ったら、
そこに巨大なイカとお茶。
そして数分後、軽トラのおじさんが普通に回収。
こんなオチ、誰が想像できるのか。
帰り道、私は何度も思い出して笑った。
怖い話になりそうで、ならない。
迷惑そうで、妙にきちんとしている。
不気味そうで、最後はただの受け渡し。
日本の駐車場、たまに情報量が多すぎる。
でも、あのおじさんが最後にお茶まできっちり持っていった瞬間だけは、なぜか妙に安心した。
やっぱり、あれは忘れ物じゃなかった。
車の代わりでもなかった。
ただの、冷えたイカとお茶の待ち合わせだった。
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