「あなたが壊したんですよね?」
手を洗う暇もなかった。真っ黒に汚れた指先を見下ろしていた、その瞬間だった。
さっきまで「すみません、助けてください」と言っていた女性が、眉をひそめて私を睨んでいた。
――は?
時間を少し巻き戻す。
朝8時前。通勤ラッシュ。信号待ちをしていた私に、保育園くらいの子どもを乗せた自転車の女性が声をかけてきた。
「チェーン外れちゃって…直せますか?」
正直、急いでいた。でも断れなかった。
軍手もない。ティッシュもない。「何か汚れてもいい布ありますか?」と聞いたら、
「ないです」
即答だった。
仕方なく、素手で触った。ギアの一番外側にがっつり噛み込んでいる。指を差し込むたび、黒い油が広がる。
「ちょっと時間かかるかもしれません」
そう言った瞬間。
「急いでるんですけど、早くしてもらえません?」
その一言で、何かが冷えた。
それでも、最後までやった。なんとか戻した。手はもう真っ黒だった。
「ありがとうございました」
一応、そう言って彼女は走り出した。
――そして10秒後。
ガチャッ。
またチェーンが外れた。
彼女は自転車を引き戻してきて、私の前に止めた。
そして冒頭の一言だ。
「あなたがちゃんと直してないからですよね?」
思わず笑いそうになった。
「いや、これはチェーン自体がかなり摩耗していて――」
「でもさっきまで普通に乗れてたんですよ?触ったのはあなたですよね?」
声が大きくなる。
通勤途中の人たちが足を止める。でも誰も口は出さない。日本らしい沈黙。
「修理代、どうするつもりですか?」
……来た。
まさかの“賠償要求”。
私は深く息を吸った。
怒鳴らない。焦らない。
「では、もう一度そのまま乗ってみてください。私は触りません」
そう言って、距離を取った。
彼女は不満げにまた乗る。
ガチャッ。
3メートルも進まないうちに、また外れた。
周囲から小さなざわめきが起こる。
私は静かに言った。
「後ろの変速機、曲がってますよ。チェーンも伸びています。これは触ったからではなく、消耗です」
彼女は黙った。
しかし、引き下がらない。
「でもあなたが触ったあとに悪化したんです!」
その瞬間。
後ろから低い声がした。
「いや、それは無理あるだろ」
振り返ると、スーツ姿の男性が腕を組んで立っていた。
「俺、昔自転車屋でバイトしてたけど、それ完全に寿命」
別の人も小さく頷く。
空気が変わった。
さっきまで私一人が“加害者”扱いだったのに、今は彼女が説明を求められる側になっていた。
「触ってない状態でも外れましたよね?」
誰かが言った。
彼女の顔が赤くなる。
子どもが後ろで不安そうに私を見ている。
彼女はしばらく何か言おうとして、やめた。
「……もういいです」
そう吐き捨てて、自転車を押して歩き出した。
その背中に、さっきの男性が一言。
「助けてもらったんだから、まずはそこだろ」
彼女は振り返らなかった。
周囲の人たちは何事もなかったように散っていく。
私は手を見る。
黒い油。落ちない。
隣にいた男性が、軽く肩を叩いた。
「災難でしたね。優しいと損すること、あるよな」
私は苦笑いした。
信号が青に変わる。
会社には遅刻だ。
でも、さっきより気持ちは軽い。
私はポケットからウェットティッシュを取り出した。――最初から持っていた。
本当は、自分用だった。
拭きながら、ひとり呟いた。
「善意って、任意なんだよな」
そして私は歩き出した。
あの朝、学んだことは一つだけ。
助けるかどうかは自由。
でも、最後まで背負う義務はない。
それだけだ。