トイレまで、ほんの3メートル。
見えているのに、私は進めなかった。
地方の通学電車。
連結部にも、ドア前にも、そしてトイレの前にも、高校生が座り込んでスマホをぽちぽち。
床にぺたり。脚は通路いっぱいに伸びている。
私は最初、とても普通に言った。
「すみません、通してもらえますか?」
声は丁寧だったと思う。
けれど返ってきたのは、冷たい視線と小さな笑い声。
「なんなんコイツ」
はっきり聞こえた。
誰もどかない。
誰も動かない。
そして周りの大人たちも、見事に目をそらす。
イヤホンを直す人。
スマホを見つめ続ける人。
吊革を握ったまま、石像みたいに固まる人。
私はもう一度言った。
「トイレに行きたいんです。通してください。」
今度は少し強めに。
でも彼らは動かなかった。
ひとりが露骨にため息をつき、別のひとりがニヤっと笑った。
“うざい大人が来た”という空気。
その瞬間、胸の奥がぐっと熱くなった。
情けないけど、ちょっと泣きそうになった。
トイレに行けないからじゃない。
公共の通路で、お願いしないと歩けない自分が、急にすごく小さく感じたから。
でも、そこで引いたら、きっとこの光景はずっと続く。
私は一歩前に出た。
そして、はっきり言った。
「ここは通路です。トイレ前は座る場所じゃありません。」
声を、わざと上げた。
車両全体に届くくらい。
空気が変わった。
さっきまで無関心だった視線が、一斉にこちらを向いた。
高校生たちの顔が一瞬固まる。
「ちょっとくらい別にいいじゃん」
ひとりが言い返す。
私は即座に返した。
「よくないです。今、私は通れません。ここはあなたたちのスペースじゃない。」
今度ははっきり、怒っていた。
そのとき、後ろから声がした。
「通路だよ。立ちなさい。
」
サラリーマン風の男性だった。
さらに、別の女性も続く。
「トイレ前はダメでしょ。」
空気が一気に逆転した。
高校生たちは明らかに動揺した。
さっきまでの余裕は消えている。
そこへ、乗務員がやって来た。
「通路確保をお願いします。座り込みはご遠慮ください。」
静かな声。でも、絶対的なトーン。
それで終わった。
彼らは渋々立ち上がり、バッグを拾い、連結部の方へ移動した。
私はゆっくり前に進んだ。
たった3メートル。
通り過ぎるとき、私は言った。
「ありがとうございます。やっと通れます。」
皮肉でもなく、でも柔らかくもない声で。
トイレのドアを閉めた瞬間、深く息を吐いた。
怖かった。
でも、言ってよかった。
本当に怖いのは、座り込みじゃない。
“誰も何も言わない空気”のほうだ。
公共のルールは、紙に書いてあるだけじゃ守られない。
誰かが声を出さないと、ただの背景になる。
今日はたまたま、私がその役だっただけ。
トイレまで3メートル。
その距離を取り戻すのに必要だったのは、勇気というより、ほんの少しの「もういい加減にして」の気持ちだった。
地方の通学電車アウトローすぎる?
たぶんそう。
でも、それを放置する大人もまた、アウトローなのかもしれない。
今日は、黙らなかった。
それだけで、ちょっとスッとした。