「富士山が見たい」と言って、非常停止ボタンを押した男がいた。
私は、その電車に乗っていた。
ガクン、と車体が沈むように揺れた。
吊り革が一斉に鳴り、立っていた人が前のめりになる。
隣の高齢男性がよろめき、必死に手すりを掴んだ。
子どもが泣き出し、スーツ姿の女性がスマホを落とした。
車内アナウンスが流れる。
「非常停止ボタンが押されました。安全確認のため停車します。」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
前方に視線をやると、人だかりの中心に男がいた。
軽装、観光客風。
窓の外を指さして笑っている。
「ほら、今日めっちゃ綺麗じゃん。今しかないでしょ?」
富士山だった。
一瞬、怒りよりも、理解不能の感情が先に来た。
「え?それで止めたの?」と誰かが声を上げる。
男は肩をすくめた。
「ちょっと止めただけじゃん。こんなんで騒ぐとか、小さくない?」
小さい?
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
私の前に座っていた若い男性は、青い顔で時計を見ていた。
「面接、間に合わない…」
斜め後ろの女性は電話をかけている。
「すみません、遅延で…はい、本当にすみません…」
車内の空気は、もう観光どころではない。
車掌が駆けつけた。
「緊急時以外の非常停止は重大な妨害行為です。」
男は笑った。
「いやいや、誰も怪我してないでしょ?遅れるだけだって。」
“だけ”。
その“だけ”で、何百人の一日が壊れる。
安全確認が長引き、停車時間が伸びていく。
車内は重苦しい沈黙に包まれた。
ようやく動き出し、次の駅に到着したときだった。
男は何事もなかったように、ドアへ向かった。
逃げる。
そう直感した。
私は立ち上がった。
ドア横のポールに手をかけ、彼の前に立った。
「説明してから降りてください。」
車内が静まり返る。
男は一瞬、目を見開いた。
「は?どいてよ。」
私は動かなかった。
「あなたが押しましたよね?」
男は声を荒げた。
「通報するぞ!監禁だぞ!」
でも、その目は明らかに泳いでいた。
さっきまでの余裕は消えている。
私は怒鳴らなかった。
「通報してください。記録も残っています。
」
周囲から視線が集まる。
何人かがスマホを構えている。
男は一歩下がった。
「大げさなんだよ、お前ら。観光だぞ?」
後ろから低い声がした。
「観光で電車止めるな。」
スーツ姿の男性だった。
さらに別の声が続く。
「うちの子、怖がってるんだよ。」
空気が変わった。
男は強がるように笑ったが、口元が引きつっている。
駅員が駆けつけ、状況確認を始めた。
男は何か言い訳を並べていたが、駅員の声は冷静だった。
「詳細は記録されています。」
私はその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。
電車は再び動き出した。
遅延は拡大し、接続は乱れ、アナウンスが繰り返される。
その後、車内に流れたのは、いつもより硬い口調の声明だった。
「本件につきましては、安全運行を妨げる重大な行為として厳正に対処します。
損害額を精査し、損害賠償請求を含めた法的措置を検討しております。」
ざわめきが広がる。
“損害賠償”。
その言葉が、車内に重く落ちた。
非常停止ボタン一つで止まるのは電車だけじゃない。
運行計画、乗務員の配置、後続列車、接続ダイヤ、駅対応。
遅延は連鎖する。
そのコストは、数字になる。
私は面接に遅れた。
病院に向かっていた人は、予約を取り直すことになった。
子どもは泣き疲れて眠った。
富士山は、変わらず美しかった。
でも。
私は最後に、あの男に言った言葉を思い返した。
押した瞬間から、あなたは加害者です。
景色を見る自由はある。
でも、安全を壊す自由はない。
そして、記録からは逃げられない。
その請求書は、きっと軽くない。
それが、唯一の救いだった。
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