赤ちゃんをやっと寝かしつけた、その瞬間だった。
抱っこでデッキを行ったり来たり。背中は汗、腕はパンパン。ようやく小さな呼吸が一定になって、「今なら座れる…」って思って、そーっと自分の席に戻った。
赤ちゃんの頭が前にカクンとなりそうで、背もたれを“ほんの少しだけ”倒したかった。ほんの数センチでいい。私の腕が休める角度がほしい。
……なのに。
背もたれが、1ミリも動かない。
え?ロック?故障?と思って振り返ったら、原因が一発で分かった。後ろの足元に置かれた大きなキャリーケースが、私の背もたれにぴったり当たって、完全に“固定”してた。
静かに、でも内心は焦りまくりながら、私は後ろの女性に声をかけた。
「すみません…赤ちゃん寝ちゃってて、少しだけ倒してもいいですか?頭を支えるのがつらくて…」
女性はハッとした顔をして、すぐに謝ってくれた。
「ごめんなさい…私も本当はこうしたくなくて…」
彼女が視線で示した先を見て、私は言葉が詰まった。
荷物棚のところに、彼女のもう一つの荷物(同じくらいのサイズ感)が“ギリギリ”の状態で置かれている。
ちゃんと奥まで入っていない。角度が危ない。正直、揺れたら滑ってもおかしくない。
「さっき上げようとして…でも重くて、どうしても安定しなくて。落ちたら怖くて…」
ああ、これは「マナーが悪い」って一言で切れる話じゃないやつだ。
上げられない。だけど足元に置くと、前の席が倒れない。詰んでる。
でも、私の腕はもう限界で、赤ちゃんの頭が少しでもずれたら起きて泣く。起きたら、また最初から寝かしつけ。考えただけでめまいがした。
周りの空気も、じわっと重くなる。
通路側の人が立ち上がろうとして、足元の荷物に当たりそうになって止まる。前方から「……倒せないんだけど」という小さなため息。誰も悪人じゃないのに、全員が不快になるタイプのトラブル。
ここで私が「なんでこんな所に置くんですか!」って言ったら、たぶん一瞬で揉める。
でも私が黙ったら、赤ちゃんの頭は私の腕一本に全部乗る。どっちも無理。
だから、深呼吸して、私は“喧嘩じゃない方向”に舵を切った。
「大丈夫です。無理に上げて落としたら危ないですよね」
「ただ…このままだと座席が全然倒れなくて、赤ちゃんの頭が支えられないんです」
「乗務員さん呼んで、ルールの場所に移せるか相談してもいいですか?」
彼女は何度も頷いた。目がちょっと潤んでて、たぶん、ずっと困ってたんだと思う。
私はサービスボタンを押した。
来てくれた乗務員さんに、感情は乗せずに事実だけ伝えた。
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