母を車椅子に乗せて東海道新幹線に乗った日のことです。母は足が悪く、長距離を歩くことが難しいため、乗り降りに時間がかからないよう、私はいつも停車の数分前にはデッキへ移動するようにしています。その日も次の駅で降りる予定だったので、少し早めに出口へ向かいました。
ところが、ドアの前まで来た瞬間、私は言葉を失いました。
出入口いっぱいに折りたたみ椅子が広げられ、その上では若い男性が毛布をかぶって熟睡しています。リュックや荷物まで周囲に置かれ、車椅子どころか、大人一人が通るのもやっとという状態でした。
「すみません……」
何度か声をかけようとしましたが、イヤホンをつけているのか全く反応がありません。仕方なく近くにいた車掌さんを呼びました。
「出口が塞がれているんですが、このままだと母が降りられません。」
車掌さんは一度その男性を見たあと、落ち着いた口調で言いました。
「新横浜まではこちら側のドアは開きませんので、大丈夫です。」
そう言い残すと、男性を起こすこともなく、そのまま別の車両へ行ってしまったのです。
私は思わず母と顔を見合わせました。
「本当にこれでいいの?」という気持ちでしたが、車掌さんがそう言う以上、待つしかありません。周囲の乗客も小声で「危ないよね」「邪魔だな」と話していましたが、誰も本人には声をかけませんでした。
ところが数分後、車内アナウンスが流れます。
「運行上の都合により、本日は進行方向左側ではなく、右側のドアから降車していただきます。」
その瞬間、デッキの空気が一変しました。
さっきまで「開かない」と言われていたドアが、この駅では唯一の出口になったのです。
ベビーカーを押す夫婦、大きなスーツケースを持つ旅行客、私たち親子が一斉に出口へ集まりました。しかし、そこにはまだ男性が寝たまま。通路は完全に塞がれ、人の列だけがどんどん伸びていきます。
私は再び車掌さんを呼びました。
「今この人を起こさないで、このまま誰かが降り遅れたり転倒したら、その責任はJRが負ってくださるんですよね?」
デッキが一瞬静まり返りました。
すると後ろから、
「その通りです。」
「車椅子の方がいるんですよ。」
「これはさすがに危険でしょう。」
と次々に声が上がり始めたのです。
車掌さんの表情が変わりました。
すぐに無線で応援を呼び、もう一人の車掌さんが駆けつけます。
二人は男性の肩を軽く叩きながら、「お客様、お客様」と何度も声をかけました。ようやく目を覚ました男性は、不機嫌そうに「えっ?」と起き上がりましたが、車掌さんは穏やかな口調ながらもはっきりと言いました。
「出入口を塞ぐ行為は安全上おやめください。すぐに荷物と椅子の移動をお願いいたします。
」
男性は周囲を見回し、何十人もの乗客が自分を見ていることに気付いた瞬間、顔を真っ赤にしながら慌てて椅子を畳み、荷物を抱えてその場を離れていきました。
ようやく通路が開き、母の車椅子も無事にホームへ降りることができました。
その後、車内では「安全確保のため、出入口やデッキでの滞留・占有はご遠慮ください」というアナウンスが改めて流れました。
母はホームで小さく笑いながら言いました。
「あなたが言ってくれなかったら、みんな我慢したままだったね。」
その言葉を聞いて、私は改めて思いました。
公共の場では、ルールを守らない人が悪いのはもちろんです。でも、それ以上に怖いのは、「面倒だから」と誰も何も言わずに見過ごしてしまう空気なのかもしれません。
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