正直、その鮭を皿に乗せた瞬間、私はもう諦めていた。
これは夕飯じゃない。
これは反省文だ。
そう思うくらい、見た目が強かった。
朝からずっとバタバタしていた。
仕事の返事をして、洗濯機を回して、床に落ちていた靴下を拾って、冷蔵庫の中を見て、
「あ、今日は鮭でいいか」
と思った。
ちゃんと作るつもりだった。
別に手抜きのつもりじゃない。
鮭を焼いて、汁物を温めて、ご飯をよそって。
それだけで十分、ちゃんとした夕飯になると思っていた。
フライパンに鮭を置いたときまでは、確かに普通だった。
じゅわっと音がして、皮のあたりが少し香ばしくなって、
「今日はいい感じかも」
なんて思っていた。
そのタイミングで、洗濯機が終わった音がした。
外を見ると、雲行きも怪しい。
「あ、先に取り込まなきゃ」
そう思って、火を少し弱めた。
本当に少しだけ。
すぐ戻るつもりだった。
でも、洗濯物って一度触ると終わらない。
タオルが一枚落ちている。
ハンガーが絡まっている。
子どもの服だけ妙に乾いていない。
ついでに畳んでしまおうかな、なんて考えたのが間違いだった。
台所に戻った瞬間、空気が違った。
においで分かった。
「あ、やった」
声が出た。
フライパンの中を見たら、鮭が私の知っている鮭ではなくなっていた。
黒い。
とにかく黒い。
でも、端っこのほうに少しだけ赤い部分が残っていて、それがまた妙に悲しかった。
全部真っ黒なら、まだ笑えたかもしれない。
でも、中途半端に鮭の名残がある。
それが逆に、
「私はさっきまでちゃんと鮭でした」
と言っているみたいで、申し訳なかった。
しばらくフライパンの前で固まった。
捨てる?
いや、もったいない。
削る?
どこまで削ればいい?
そもそも、これは削っていいレベルなのか。
包丁で黒いところを少し落としてみた。
カリッ。
というより、
ガリッ。
だった。
もう音が夕飯じゃない。
工作だった。
それでも中の部分は少し残っていたから、私はなんとか食べられそうなところだけ皿に乗せた。
見た目は、かなり強い。
皿の柄だけがやけに優しい。
その優しい皿の上に、全然優しくない鮭が乗っている。
自分で見ても笑いそうになった。
でも笑えなかった。
夫が帰ってくる時間だったから。
こういう日に限って、夫はいつもより少し早く帰ってきた。
玄関の音がした瞬間、私はなぜか背筋が伸びた。
悪いことをしたわけじゃないのに、なぜか言い訳を考えていた。
「洗濯物を取り込んでて」
「火は弱めたんだけど」
「本当に少しだけだったんだけど」
頭の中で何度も練習した。
夫が台所に来て、
「いいにおいするね」
と言った。
私は反射的に言った。
「いや、それ、いいにおいじゃないかも」
夫が皿を見た。
一秒、止まった。
二秒目で、口元が少し動いた。
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