新幹線の窓際。
出張帰りらしいスーツ姿の男が、靴を脱いで足を思いきり前に投げ出していた。
しかも、臭い。
最初は気のせいかと思った。
でも違う。はっきり分かるレベルだった。
足裏を窓に押しつけ、指を動かしている。
周囲は沈黙。
誰も何も言わない。
「まあ我慢するか」という空気。
私は一瞬迷った。
言ったら面倒になるかもしれない。
トラブルになるかもしれない。
でも、ずっとこの臭いを吸い続けるのも無理だった。
小さく深呼吸して、私は言った。
「足が臭いのでやめて貰えますか?」
車内が一瞬凍った。
男はゆっくり顔を上げた。
そして、露骨に眉をひそめる。
「は?公共の場だろ?何が悪い?」
声がでかい。
明らかに威圧。
私は一瞬、怯んだ。
周囲はやっぱり沈黙。
「言わなきゃよかったかも」と頭をよぎる。
でも、足はそのまま。
私は震える声で続けた。
「周りの迷惑です」
すると男は鼻で笑った。
「神経質すぎ。新幹線なんてこんなもんだろ」
その瞬間、私の中で何かが切れた。
違う。
“こんなもん”にしてるのは、あなたみたいな人だ。
私は迷わず、車掌呼び出しボタンを押した。
男はさらにヒートアップ。
「大げさなんだよ!クレーマーか?」
胸がドクドクする。
怖い。正直怖い。
でも、逃げたら終わると思った。
やがて車掌が到着。
私は状況を説明した。
男は被せるように言う。
「いきなり臭いとか失礼だろ?」
その時だった。
後ろの席から、小さな声。
「…確かに、さっきから臭いです」
さらに別の席から。
「ちょっときついですね」
今まで沈黙だった空気が、変わった。
車掌は冷静に男へ向き直る。
「お客様、靴を履いていただけますか」
男は舌打ち。
でも履かない。
そして決定打。
「他のお客様にご迷惑ですので、次の駅でご降車いただきます」
車内が静まり返る。
男は「は?冗談だろ」と食い下がるが、車掌は一切ブレない。
次の停車駅。
ドアが開き、男は渋々立ち上がった。
去り際、こちらを睨む。
でも、もう怖くなかった。
扉が閉まった瞬間。
小さな拍手が、後方から聞こえた。
本当に小さな、遠慮がちな拍手。
でも、確かにあった。
私は席に座り直し、やっと深く息を吸えた。
臭いは消え、車内は静か。
私はヒーローじゃない。
正義感が強いわけでもない。
ただ、我慢しなかっただけ。
「言わなきゃよかった」と一瞬思った。
でも今は違う。
黙っている人が多い場所で、
声を出す人が一人いるだけで、空気は変わる。
マナーは“うるさい人”が守るんじゃない。
守らせる人がいるから保たれる。
新幹線は再び走り出した。
私はスマホを握りしめて思った。
我慢は美徳じゃない。
迷惑には、ちゃんと線を引いていい。
そして、あの小さな拍手は——
間違ってなかったという証拠だった。