安達結希くんの発見現場が、花や手紙で埋まっているという話を見た。
正直、胸が痛い。
でも同時に、かなり腹が立った。
「悼む気持ちだからいい」
「かわいそうだから仕方ない」
「何かしてあげたかっただけ」
たぶん、そう言う人もいると思う。
気持ちは分かる。
本当に分かる。
でも、だからこそ言いたい。
その花、誰が片付けるんですか?
その濡れた手紙、誰が処分するんですか?
その包装紙、ビニール、リボン、花束の残骸。
時間が経てば傷む。
雨が降ればぐちゃぐちゃになる。
風が吹けば散らばる。
虫も来る。
においも出る。
見た目もどんどん変わっていく。
それを最後に片付けるのは、花を置いた人ではない。
地元の人。
近くに住む人。
管理する人。
毎日そこを通る人。
つまり、何も悪くない人たちだ。
祈りたい気持ちは否定しない。
手を合わせたい気持ちも否定しない。
でも、物を置いて帰ることだけが祈りなのか。
現場に行って、花を置いて、写真を撮って、SNSに投稿して、
「自分はちゃんと心を痛めました」
それで終わり。
あとは知らない。
それは本当に優しさなのか。
きつい言い方をすれば、自己満足と言われても仕方ないと思う。
もちろん、最初に花を置いた人は、純粋な気持ちだったのかもしれない。
でも一人が置けば、次の人も置く。
花が増えれば、手紙も増える。
ぬいぐるみも増える。
飲み物も増える。
そのうち現場は、静かに手を合わせる場所ではなくなる。
“何かを置く場所”になってしまう。
そして誰かが片付けるまで、そこに残り続ける。
これが問題なんだと思う。
安達結希くんのために、という気持ちなら、
なぜその場所を散らかしたまま帰れるのか。
なぜ地元の人に負担を残して平気なのか。
なぜ「自分が置いたあとのこと」を考えないのか。
本当に大切なのは、花の数じゃない。
手紙の量でもない。
写真映えすることでもない。
静かに手を合わせること。
二度と同じことが起きないように考えること。
残された人たちの邪魔をしないこと。
地域の人の生活を乱さないこと。
それだと思う。
悲しい出来事があるたびに、現場に物が集まる。
最初は「優しさ」に見える。
でも、管理されなければすぐに負担になる。
花は永遠にきれいなままではない。
紙はずっと清潔なままではない。
供えた気持ちだけが美談になって、
片付けの現実だけが誰かに押しつけられる。
それは、あまりにも無責任だ。
「じゃあ何もしちゃいけないのか」
そういう話ではない。
現場に行かなくても祈れる。
物を置かなくても悼める。
静かに手を合わせるだけでもいい。
募金先があるなら、そこに協力する方法もある。
同じようなことを防ぐために、情報を正しく知ることもできる。
自分の身近な子どもたちを、ちゃんと見守ることもできる。
できることはいくらでもある。
それなのに、わざわざ現場に物を置いて、
その後の始末を他人に任せる。
それを「善意」と呼ぶのは、少し違うと思う。
善意なら、最後まで考えてほしい。
花を買う前に考えてほしい。
置いたあと、それがどうなるのか。
雨の日はどうなるのか。
一週間後はどうなるのか。
一か月後はどうなるのか。
誰の手を煩わせるのか。
そこまで想像して、それでも必要だと思うなら、
せめて持ち帰る覚悟まで持つべきだ。
置きっぱなしの優しさなんて、優しさではない。
安達結希くんの名前を使って、
自分の感情を満たして終わるような行為には、どうしても違和感がある。
現場はイベント会場じゃない。
撮影スポットでもない。
一時的な流行に乗って人が集まり、
それぞれが何かを置いて帰る場所でもない。
そこには、地元の人の日常がある。
通学路かもしれない。
通勤路かもしれない。
毎日目に入って、苦しくなる人もいるかもしれない。
それを考えずに、
「かわいそうだから」
「みんな置いているから」
「自分も何かしたかったから」
で済ませていいはずがない。
本当に悼むなら、静かに。
本当に祈るなら、軽率に残さない。
本当に心を寄せるなら、現場を荒らさない。
花を置く前に、まず考えてほしい。
その善意は、誰かの迷惑になっていないか。
その行動は、安達結希くんのためになっているのか。
それとも、自分が安心するためだけのものなのか。
手を合わせるだけでいい。
黙って祈るだけでいい。
何も置かずに帰ることだって、十分に誠実だ。
むしろ今は、その方がよほど思いやりがあると思う。
引用元:https://twitter.com/awakend_citizen/status/2047699138318635466?s=46,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]