《彼らは試験前なのに、誰よりも静かに席を譲った》
市電に乗った瞬間、私は少し驚いた。
座席には高校生たちが並んで座り、それぞれ参考書を開いていた。
英単語、数学の問題集、赤ペンでびっしり書き込まれたノート。
車内は混んでいるのに、不思議なくらい静かだった。
聞こえるのは、電車が揺れる音と、紙をめくる小さな音だけ。
「試験前なのかな」
私はそう思いながら、つり革につかまった。
正直、最初は少しだけ思った。
今の子たちは本当に忙しいんだな、と。
電車の中でもスマホではなく参考書。
座っている間すら、勉強時間に変えている。
大変そうだな、と思った。
けれど次の停留所で、車内の空気が少し変わった。
杖をついた高齢の男性が乗ってきた。
ゆっくりと足を運び、空いている席を探すように車内を見渡した。
でも、座席はほとんど埋まっていた。
その瞬間、何人かの大人はすっと視線を落とした。
スマホを見るふりをする人。
窓の外を見る人。
寝たふりのように目を閉じる人。
「ああ、またこの空気か」
そう思った時だった。
参考書を読んでいた一人の高校生が、迷うことなく本を閉じた。
「どうぞ」
たった一言。
声は大きくなかった。
でも、はっきりしていた。
老人は一瞬驚いた顔をして、それから何度も頭を下げた。
「ありがとうね」
高校生は少し照れたように笑って、席を譲った。
そして自分はドアのそばに立ち、片手で手すりを持ち、もう片方の手でまた参考書を開いた。
私はその姿から目が離せなかった。
揺れる電車の中で、立ったまま勉強するのは楽ではない。
ページはめくりにくいし、文字だって追いづらい。
それでも彼は、不満そうな顔ひとつしなかった。
そして、驚いたのはそれだけではなかった。
次の停留所で、また別の高齢者が乗ってきた。
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