スーパーのレジ前で、小さな女の子が床に転がって大泣きしていた。
子ども用のハーネスをつけたまま、体をよじらせて、泣き声はどんどん大きくなる。
その横では、ベビーカーに乗った赤ちゃんまでつられて泣き出していた。
お母さんは、もう完全に限界寸前に見えた。
でも、怒鳴らない。
投げ出さない。
片手で女の子をなだめながら、もう片方の手でベビーカーを押さえ、レジを終えた荷物にも目を配っている。
見ているこっちが息苦しくなるくらい、必死だった。
私はその場で立ち止まった。
声をかけるべきか。
でも、突然知らない人に話しかけられたら、お母さんもびっくりするかもしれない。
「余計なお世話です」と思われるかもしれない。
女の子がさらにパニックになるかもしれない。
それに、もしかしたらお母さんは、誰にも見られず、誰にも触れられず、この場を一秒でも早く去りたいだけかもしれない。
頭の中で、言い訳みたいな考えがぐるぐる回った。
でも、目の前のお母さんの表情を見た瞬間、昔の自分を思い出してしまった。
子どもが外で癇癪を起こした時。
周りの視線が全部、自分を責めているように感じたこと。
「ちゃんとしつけてない母親」だと思われている気がして、ただただ消えたくなったこと。
本当は誰かに一言だけでも言ってほしかった。
「大丈夫ですよ」って。
「手伝いますよ」って。
だから私は、結局黙っていられなかった。
レジの横で少しだけ距離を取りながら、できるだけ柔らかい声で言った。
「突然すみません。袋詰めとか、ベビーカーとか、もしお手伝いできることがあれば、遠慮なく言ってください。お節介で本当にすみません」
言った瞬間、やっぱり余計だったかもしれないと心臓が跳ねた。
でも、お母さんは私を見た。
そして、その目にみるみる涙がたまっていった。
その顔を見た瞬間、私は何も言えなくなった。
きっと、ずっと張り詰めていたのだと思う。
人前で泣きたかったわけじゃない。
助けを求める余裕すらなかっただけなんだと思う。
私は慌てて言った。
「大丈夫、大丈夫ですよ。一緒に行きましょう」
もっと気の利いたことを言えればよかった。
でも、その時の私にはそれしか出てこなかった。
お母さんは暴れる女の子を抱き上げた。
私は買い物袋を持ち、赤ちゃんの乗ったベビーカーを押した。
スーパーの出口までの短い距離が、なんだかすごく長く感じた。
でも、不思議と嫌な重さではなかった。
むしろ、私の中で何かがほどけていくようだった。
車のところまで着くと、お母さんは何度も頭を下げた。
「本当にすみません。ご迷惑をおかけして……」
私は反射的に首を振った。
「いや、全然!むしろベビーカー押させてもらってありがとうございます!赤ちゃん可愛すぎて、私の方が得しました!」
言った直後、自分でも思った。
私は一体、何を言っているんだろう。
テンションがおかしい。
完全に怪しいおばさんだったかもしれない。
あとから思い返して、少し恥ずかしくなった。
でも、お母さんはほんの少し笑ってくれた。
疲れ切った顔の中に、ほんの一瞬だけ、力が抜けたような笑顔が見えた。
それだけで、私は声をかけてよかったと思った。
あの時、私はあのお母さんを助けたかったのかもしれない。
でも本当は、昔の自分も一緒に救いたかったのかもしれない。
子どもが泣くたび、周りの視線に怯えていた自分。
申し訳ない気持ちでいっぱいになって、誰にも頼れなかった自分。
あの頃の私は、世界が冷たい場所だと思い込んでいた。
でも、もしかしたら違ったのかもしれない。
声をかける勇気がなかった人。
助けたいけど迷っていた人。
ただ見守ってくれていた人。
あの時の私には見えていなかっただけで、優しさはちゃんと近くにあったのかもしれない。
その日、スーパーのレジ前は確かに大混乱だった。
女の子は泣いていたし、赤ちゃんも泣いていた。
お母さんは限界だった。
でも、最後にほんの少しだけ空気が変わった。
冷たい視線ばかりだと思っていた場所に、ちゃんと温度が生まれた。
あのお母さんにも、いつか今日のことを笑って話せる日が来ますように。
「あの時は大変だったよね」って。
「でも、なんとか乗り越えたよね」って。
子育てのしんどい瞬間は、永遠に続くように見える。
でも、ちゃんと終わる。
そしていつか、少しだけ優しい思い出になる。
あのお母さんは、本当に頑張っていた。
私はただ、ほんの少し手を貸しただけ。
でも、そのほんの少しが、誰かの一日を救うこともあるのだと、その日改めて思った。