バレンタインデーの夜だった。
仕事帰り、マンションの入口に入った瞬間、足が止まった。
ゴミ捨て場の横に、バラの花束が捨てられていた。
赤いバラ。
透明のフィルム。
リボンもついたまま。
「……え、もったいな」
思わずそう呟いた。
誰かがもらって、そのまま捨てたのか。
それとも、何かあったのか。
少しだけ気になったけど、そのまま通り過ぎた。
エレベーターに乗って、部屋に戻る。
今日は何も期待していなかった。
彼はそういうイベントにマメなタイプじゃない。
でも、ドアの前でスマホが鳴った。
「今着いた」
彼からのメッセージ。
「え?」
数秒後、インターホンが鳴る。
ドアを開けた瞬間——
私は固まった。
彼が、バラの花束を持っていた。
「はい、これ」
少し照れた顔。
でも、その花。
さっき見たものと、まったく同じだった。
包装。
色。
本数。
リボンの位置。
全部。
「……ありがとう」
とりあえず受け取る。
手に持った瞬間、違和感が確信に変わる。
「これ、ちゃんと選んだんだよ」
彼はそう言って、靴を脱いで中に入る。
その言葉に、思わず笑いそうになった。
「そうなんだ」
私は花をテーブルに置いた。
「いくらしたの?」
軽く聞いてみる。
彼は一瞬だけ詰まってから、
「え、いや、そういうのじゃないじゃん」
と笑った。
「気持ちが大事でしょ」
——出た。
そのままソファに座って、スマホをいじりながら言う。
「なんかさ、ちゃんとしたの食べたくない?」
「今日くらいさ、いい感じのやつ作ってよ」
さらに続けて、
「あ、あとさ」
キッチンの方を指差す。
「この前買ったチェリーあるでしょ?あれ食べたい」
一瞬、何も言えなかった。
あのチェリー、ちょっと高かったやつだ。
自分用に買ったのに、まだ食べてない。
「……ねえ」
私はゆっくり彼の方を見た。
「この花、どこで買ったの?」
彼はスマホから目を上げずに言った。
「普通に店」
「いつ?」
「昨日」
その瞬間、全部繋がった。
私は一歩だけ近づいた。
「じゃあさ」
できるだけ普通の声で言う。
「一回返品しようよ」
彼が顔を上げる。
「は?」
「昨日買ったなら、まだいけるでしょ」
その一言で、空気が変わった。
「いや、無理だよ」
明らかに早い否定。
「レシートないし」
「じゃあ、最初から返品する気なかったんだ」
彼は少しイラついたように言った。
「だからさ、そういう問題じゃないって」
「気持ちでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、もう我慢できなかった。
私は花束を手に取った。
そして、ゆっくり言った。
「ねえ」
彼の目を見る。
「その花さ」
一拍置く。
「さっき下に捨ててあったやつだよね?」
完全に、止まった。
彼の顔が固まる。
「……は?」
「入口のゴミ捨て場の横」
私は淡々と続ける。
「同じ花、見たよ」
沈黙。
「包装も、リボンも、全部同じだった」
彼は何も言わない。
言えない。
「だから、値段も言えなかったんだよね?」
さらに一歩踏み込む。
「買ってないもんね、それ」
数秒の沈黙のあと、彼が小さく言った。
「……違う」
でも、その声は弱かった。
私はそのまま花をテーブルに戻した。
「もういいよ」
それ以上、説明を聞く気はなかった。
「そういうの、いらないから」
彼は何か言おうとした。
でも、言葉が出てこなかった。
私はキッチンに向かいながら言った。
「チェリーは食べないで」
振り返らずに。
「それ、私のだから」
部屋の空気は、完全に変わっていた。
さっきまでの“イベントっぽさ”は、もうどこにもない。
私は冷蔵庫を開けながら、小さく呟いた。
「心意って、使い回しでもいいんだね」
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